社会性フィルターについて - わかられない自由について
図です pic.twitter.com/2OFfuLPk2l
— 4869 (@sh4869sh) 2016年8月21日
このツイートがバズってから随分経った.このツイート自体が伸びることに関しては問題がなくて*1,それよりも「社会性フィルター」という言葉がバズってしまったことが時々僕を後悔のラウンドに立たせることがある*2.
このツイートがバズる前から「にゃーん」というツイートをタイムラインで見かけることがあった.それに果たしてどのような意味があるのかは僕にはわからなかったが,わからないから良かったのではないかと,そう思うことがある.つまりそれは「にゃーん」の裏側にある感情や個々人の事情の存在があやふやであるが故にぼくらはその「にゃーん」の持つ意味を受け取らずに済んでいたのだと思う.
本当につらいことがあったのかもしれない.なんとも言えない事情が後ろにあったのかもしれない.ただ猫になりたいと思っていたのかもしれない.本当は「荷物がとどかない」とツイートしようとしたがIMEがたまたま「にゃーん」をサジェストしてきたのでそれを呟いただけだったのかもしれない.つまりその本当の意味は本人しかわからず,意味を持つかどうかさえ本人にしかわからなかったのだ.
しかし今はどうだろうか.僕のツイートにより『「にゃーん」は「社会性フィルター」を通して呟かれるもの』という前提が作られてしまい,その本来の意味こそわからないものの,意味を持つということが決まってしまったのだ.これは大きな過ちだったのではないかと,私は思う*3.
つらいことがあったかどうかもぼやけさせたい時というのはある.つらいと言っていいのかわからないときもある.なんとも言えない感情に襲われることだってある.それを暖かく包んでくれた「にゃーん」は,唐突に理解のフィールドに押し上げられて「わかる」ものになってしまったのだ.本人がわかられたいかどうかに関わらず.理解とはときに暴力的であるということを,私は理解できていなかったのだ.カテゴライズされる苦しみが,確かにそこにはあるのだろう*4.
私は強く後悔している*5.ここに意味を持つことを望まなかった数々の「にゃーん」に哀悼の意を示し,もっと「語られぬ意思」が語られない権利を大切にしていきたいと思う.