Retired Colourman

何度も朝がやってくる

相互理解の前提、本当の相互理解、消耗

いくらでも話されていることだと思うんだけど自分自身が結構前に実際に体験してから言語化していなかったのでメモ程度に。

相互理解、という言葉を僕が使うとき、それは相手の意見に納得する・賛成するという意味ではなく「存在する『事実』とその『解釈』によって『意見』が出てくる」ということを理解する、ということになる。おそらくインターネットで議論をやりなれている多くの人はこういう考えになっていると勝手に思っていて、言葉こそ違えどこういうゴールライン*1がある、という認識はある程度一緒であろう。

この場合、問題になるのは『意見』が『事実』と一体化してしまうことだ。その意見は一度『解釈』を通していて『解釈』を通している時点でそれは『事実』ではない、ということが(なんらかの形で)崩れてしまっている。僕らが他人の『意見』を理解する場合、相手がその『意見』を作るために当てている『解釈』をずらしてみたり変えてみたりすることでその差分等から理解していく、という方法が一般的だと思うので、相手が意見を事実としてしまうと、解釈をずらす試みができない。さらに言えばなぜその『解釈』を選択したのかということを理解するためには、他の『解釈』を採用しなかった理由を知る必要がある。*2*3ので、相互理解のメソッドが*4使えないので、相互理解ができない、となる。

ここまでの話はまあよくある話であってこんな中学生みたいなことを、と思うと思うんだけど、話の主題はどちらかというとここから。なぜ『意見』を『事実』としてしまうのか、ということについてで。これはまあいろんな理由があって、単に訓練されてないという話に全て落ち着く気もするんだけど。そもそも上の解釈事実に関する話も僕が『事実』として捉えているだけで本当は『意見』なのかもしれないとか。いやまあ実際『意見』なんですが、これを否定すると流石に日頃の議論が成り立たなくなってしまう、こういうふうに、『事実』としなければやっていられない『意見』というのが人それぞれ存在している。多分気が付かぬうちに生存本能的に『事実』としてしまっているものもあるだろう。そうなったときに、そのことを否定できるだろうか、ということを考えてしまって。当然誤った『解釈』によってできた『意見』で大きな被害が出ているといった場合、その『解釈』が誤っているということを『意見』を『事実』と認識するのをやめさせるかはともかくとして何かしらの手は打たないといけないが。*5

本当の相互理解というのは恐らくこういう自分が持っている相互理解のメソッドが使えないものも許容するものなのだろうな、と考えたら、非常に気が滅入ってしまった。別に興味ない話ならいいんだけど、自分が興味を持っていてかつそれなりにその意見を確信的に持っているとき、相互理解をしたいと感じている分野で相互理解のメソッドを扱えない対象と出会い、またその対象の持つ意見*6を許容しづらい場合、存在を受け入れるしか術がない。他者と自分の間で十分な議論が行われていない状態で、自分の意見から見て解釈が歪んでいると思われるものも、存在するということは受け入れないといけない、ということを改めて感じてなんだか疲れてしまったという話。


andymori 「シンガー」

全然関係ないけどandymoriのシンガーの「なんだか疲れてしまったね 参ってしまったね」という始まりめっちゃいい。なんだか疲れて参ってないことそんなにないからな。

*1:スタートラインでもある

*2:当然意見から解釈を読み取ることもできるが、これはあくまで推論的でしかない。解釈をずらして比べてみるのもなにか確証があるわけではないが

*3:ここで重要なのはなぜその解釈を選んだのかであって解釈そのものではない(僕の場合だが

*4:全然関係ないけど相互理解のメソッドってめっちゃ百合漫画のタイトルっぽいな……

*5:『』つけるのめんどいでここでやめます

*6:対象の中では事実の場合が多いが