Retired Colourman

何度も朝がやってくる

23歳になった。なってしまったという方が感覚的には正しいのだけれど、そういうことをいつまでも言っているわけにはいかないという気持ちにさせられるような年齢でである。あらゆることを跳ね除けて進めることのできる若さはすでに失われつつあり、慎重に次の一手を選びながら生活していく必要があると、強く感じさせられる。そういう年である。 しかし結局のところ、無限のエネルギーのようなものは自分にはなく、ただ体力の消費に気づかないだけで無理矢理どうにかしていたという方が正しい。少しずつ「生活」の枠組みを捉えていくうちに、自分の取り落してきたものが見えてくるようになる。 そうやって無くしたかもしれない物たちに囲まれた中で、いつまでも虚勢を保ち続けることなどできない。生きていくうちに世界は加速的にシビアになっていく。いつまでもこのままで息ができると思っていたのに、このままでは保てないことばかりわかる。変わっていく必要がある。生き延びるために。

悲しい言葉ばかりで始まってしまったが、自分自身が悲嘆に暮れているかと言われれば、実はそうでもない。割合覚悟していたことである。去年のこの時期から、この一年間はそういう一年になるであろうという予感はあった。 去年は大学の間に得たものを非常にいい形で出力できた年だった。自分の中で考えていることの半分以上で「やりきった」といえるほどの感触があった。そうなれば、その次は作り出したものに対する反省の一年になるだろうと、そう思っていた。 この一年間はそういう、貯めの時期だろうと考えていたので、そこまでのショックはなかった。思ったよりも根本的な部分の問いかけが多くなってしまったり、思ったよりも立ち止まる時間が長くなってしまったというのはあるが。

そういうわけで、長いこと座り込んでいたけれど、ようやく立ち上がった。一度立ち上がると最後、周りが勝手に走り出してしまうので、否応無しに自分も走り出さないといけない。そういう状態で、ようやく走ることに慣れてきた、今の自分はそういう状態だ。 限界は見えていても、できることも増えている。今までとは別のやり方で、生き延びる自分を見つめながら、この一年間は走り抜けて行けたら良いと思う。